HOME  >  読む  > 明治日本の薩摩革命遺産②

明治日本の薩摩革命遺産②

石河確太郎と蒸気機関

斉彬と石河の出逢いがすべての始まりである。

 

石河確太郎は大和国高市郡畝傍石川村(現在の奈良県橿原市)の生まれで、江戸へ出て蘭学者・杉田成卿(すぎたせいけい)に学んだ。複数の藩より招聘されたが、島津斉彬に見出され、御庭方、諸方交易方、開成所教授などを歴任し、蒸気機関の製造にも携わった。蒸気機関の技術者として群馬に赴いた石河はこれからの産業として繊維が重要であることを理解していたが、そのことを石河に教えたのは他ならぬ島津斉彬であった。

 

ある日、濱崎太平次が舶来の綿糸を献上した。製品の素晴らしさに驚いた斉彬は西陣に鑑定を依頼すると、絹と綿の中間程の価格がついた。斉彬はこの上質の綿糸を西洋諸国が機械で量産することに危機感を抱き、「我国の膏血(こうけつ)を絞るものは是れだ、汝宜しく拮据(きつきょ)努力すべし」と石河にこの糸と一冊の洋書を示したという。これを聞き、当時、有数の綿作地帯であった大和出身の石河は紡績業を天職と感じたことだろう。この後、弟も呼び寄せ薩摩藩士にし、二人で蒸気機関を作り上げた。

 

石河の蒸気機関はこのように始まったが、斉彬はこの際、反射炉に製鉄所、ガラス工場、造船所と全ての重工業も同時にスタートさせている。日本の産業革命は段階的に軽工業から1901年の八幡製鐵所の稼働に始まる重工業へ遷ったと言われているが、斉彬の集成館事業というのは初発において重工業と軽工業を同時にスタートさせているということが特筆されなければならない。斉彬は初めから壮大な構想を持っており、集成館事業は盛大な理化学実験場で、総合的な科学研究機関としてスタートしたのである。

さらに、これは濱崎太平次が舶来の綿糸を斉彬に見せたところから始まる。就封早々の斉彬は指宿に赴きほとんど太平次のもとにいた。おそらく調所広郷と濱崎太平次の二人が作った薩摩藩という新産業国家の体制を受け継ぐ覚悟で、そのノウハウを太平次から学んだのであろう。これはトップダウンではなかった。商人がこれからの時代はこれだと示したものであった。しかも、非常に早い段階、1850年代に始めたことは重要である。アメリカが本格的に機械紡績に着手し、軌道に乗ろうという時、辛うじて日本は機械紡績の必要性を認識し着手したのである。

明治日本の薩摩革命遺産②

原口泉

県立図書館長・志學館大学人間関係学部教授

専門は日本近世史・近代史であるが、南九州(特に薩摩藩)や沖縄(琉球)の歴史に詳しい。 専任講師時代より各種テレビ番組の時代考証・解説(近年ではNHK大河ドラマ「篤姫」の時代考証)や多数の公職を務める。

ページの先頭へ