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明治維新とは?

明治維新のキッカケは?

江戸末期、強国であった清国がアヘン戦争でイギリスに敗北したことは、日本にも衝撃を与えました。
薩摩藩は日本の南端に位置し、これと前後して外国船が日本近海に頻発する事態にも危機感を抱いていました。実際、藩内の宝島(トカラ列島)や山川港(現指宿市)にも外国船が出現して騒ぎになっています。
これらの脅威に対抗できる力をつけようといち早く近代化に乗り出したのが薩摩藩だったのです。

日本という国が1つになり、強く豊かな国にならんにゃいかん!

富国強兵を目指した集成館事業

欧米列国と渡り合うために必要なことは、日本という国が1つになり、強く、豊かになること。
薩摩藩第28代当主・島津斉彬の指揮の下、薩摩藩は近代化に向けて動き始めます。現在の鹿児島市磯地区に今でいう工業コンビナートがつくられ、「集成館」と名付けられました。
軍備の近代化は急務でしたが、斉彬は人の和を大切にし、産業が興り民が幸せになり真に豊かな国になることが、容易に外国が手出しできない国づくりにつながると考え事業を強く推し進めました。

薩摩藩生まれの日の丸。
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薩摩藩は桜島瀬戸村造船所(現鹿児島市黒神町)で本格的な洋式軍艦「昇平丸」を建造しました。
しかも日本のために作ったのだということで幕府へと贈られます。薩摩での近代化の推進は、あくまでも日本全体という国を思ってのことだったのです。
この際、外国船との見分けがつく目印として島津斉彬が提案したのが、「日の丸」。これがのちに日本国旗として採用されることになります。

新しい日本のため、きばいやった人がずんばい!

人材の発掘と育成

十人が 十人とも好む人材は非常事態に対応できないので登用しない。勇断なき人は事を為す能わず。
(島津斉彬言行録より)
島津斉彬の言葉の中には「人材」についての考え方が多く見られます。西郷隆盛をはじめ、能力のある者には、身分や出身藩に関わらず活躍の場所を与えました。
また、斉彬の死後起こった薩英戦争で外国の技術を学ぶ必要性をさらに感じた薩摩藩は、鎖国という国禁を犯して15名の留学生と4名の使節をイギリスへと送ります。
そして、帰国をした留学生らの多くは、日本の近代化へその経験を活かし活躍しました。

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