流罪を命じられた西郷隆盛。 文久2(1862)年、卒兵上京する島津久光から下関で待てと命じられていたにも関わらず これに背いたとして、同行していた村田新八とともに遠島になりました。 山川港から出航した二人は、西郷は徳之島、村田は喜界島に向うため別々の船に乗っていましたが、 風待ちのため屋久島の一湊に滞在しました。 このことは村田が山川港から徳之島への航海のことを記した 「宇留満乃日記(うるまのにっき)」からわかります。