明治日本の薩摩革命遺産③
南北戦争と日本の綿花
現在、綿花の輸出量世界一はアメリカ合衆国である。アメリカ南部に広がる綿作地帯はコットンベルトと呼ばれている。幕末の頃、このアメリカ南部からイギリスへ綿花が輸出されていたが、1861年南北戦争後、著しく綿花が不足する事態となった。実はこのコットン不足の折、日本から16.4トンの綿花を輸出している。これを指示したのは石河確太郎であった。アメリカがコットン不足に陥っていた1860年代前半頃、日本は世界でも有数の綿花生産を誇っていた。かつて、“長州の三白”と言って、米・塩・綿花の販売の中心的な存在は長州であったが、8月18日の政変において長州は京都から追放され、綿問屋の取引の一切を引き継いだのが薩摩藩であった。要するにこの当時、海外への輸出が可能であったのは薩摩藩だけであった。大和産の綿花を長崎へ持って行き、上海経由で売っており、4倍の価格がついた。事実、この頃の上海の新聞には最大の取引先は島津久光であると記述されている。
その後、日本は綿花の輸出国から輸入国となり、1930年代には世界最大の製糸・紡績の産業国家へと変貌をとげることとなる。
原口泉
県立図書館長・志學館大学人間関係学部教授
専門は日本近世史・近代史であるが、南九州(特に薩摩藩)や沖縄(琉球)の歴史に詳しい。 専任講師時代より各種テレビ番組の時代考証・解説(近年ではNHK大河ドラマ「篤姫」の時代考証)や多数の公職を務める。