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明治日本の薩摩革命遺産⑤

島津斉彬が目指した富国の条件

石河確太郎の提言の中に富国の基本は衣と食であると述べられている。この提言につきる。もっと石河の顕彰を行うべきではないだろうか?愛知紡績所にて初の国産水力タービンを作ったのは石河である。1882(明治15)年に大阪紡績所ができるまでは、すべて水力タービンであった。水力タービンは画一的なものではなく、その河川に合わせ、一番水量の少ない時季でも稼働できるように入念な調査を重ねて作られた。マニュアルがあればできるというものではなく、それぞれの川の条件が違う。

始祖三紡績とは鹿児島(磯)紡績所、堺紡績所、鹿島(滝ノ川)紡績所である。最初の2つは薩摩藩が作り、1872(明治5)年に官営となった。堺紡績所は1869(明治2)年に堺の戎島に作られ、トップは五代友厚であり、蒸気機関を動かしたのは石河であった。その頃の政府には小松帯刀・大久保利通がおり、この4人で作られた。官営となった際に石河は富岡製糸場へと移った。堺は濱崎太平次や川崎正蔵などが経営を行い、最終的に岸和田紡績所となった。こうして岸和田は糸の街となり、集団就職先として鹿児島からも多くの人々が就職した。

ここで、もう一度石河の提言を考えて欲しい。

衣は、“今すぐに”、“まだ周囲がからくりを知らずに手をこまねいているうちに”着手し、食についても確保を急ぐようにと言っている。石河は軍事産業部門にも携わっていたが、場所に応じて、水力と蒸気力の2つを利用することを真っ先に提言し、そして、関吉疎水溝を開き、農業用水として、大砲の穴をあける動力として使われた。これが集成館事業であり、まさに、日本の産業革命は斉彬によって始められたと言ってよい。それを生涯の仕事としたのが石河確太郎であった。

もう一人、挙げなくてはならない人物がいる。薩摩スチューデントを率いた五代友厚である。五代はロンドンから手紙を寄せている。英国から未だ開国をしない幕府を憂いながらも次のように記されている。「国には産業と貿易が重要である。産業と貿易によって国力を満たし、強兵へと及ぶ。産業と貿易の結果として、富国強兵はあるのである。今、幕府がしないのであれば薩摩だけでもやらなくてはいけない。」そして、この政策を最初に行ったのが斉彬であり、他にいない。

斉彬がいなければ日本は相当遅れていたであろう。事実、産業革命にしろ、後の北海道開拓にしろ、全てにおいて多かれ少なかれ薩摩の人が絡んでいて、日本の近代化へつながっている。日本の近代史の中で、最初の鹿児島での壮大な実験は人類の実験であったのではないだろうか。

明治日本の薩摩革命遺産⑤

原口泉

県立図書館長・志學館大学人間関係学部教授

専門は日本近世史・近代史であるが、南九州(特に薩摩藩)や沖縄(琉球)の歴史に詳しい。 専任講師時代より各種テレビ番組の時代考証・解説(近年ではNHK大河ドラマ「篤姫」の時代考証)や多数の公職を務める。

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