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明治日本の薩摩革命遺産①

石河確太郎と富岡製糸場

日本の産業革命は島津斉彬の遺志を実現したものである。2014年6月に『富岡製糸場と絹産業遺産群』が世界文化遺産に認定された。この富岡製糸場が設立された1872(明治5)年は西郷隆盛らが岩倉使節団の留守を預かっていた留守政府時代であり、当時、蒸気機関を扱えた日本人は名前がわかっている限りでは薩摩藩士・石河確太郎のみである。

かつて、絹織物業において日本製のほとんどは世界へ輸出されていた。1925年生糸の輸出割合は生産量のおよそ84.7%を占め、1935年には生産量のピークを迎えている。鹿児島では宮之城に片倉製糸があった。片倉製糸といえばかつて富岡製糸場の操業を受託していた会社である。富岡製糸場は1872(明治5)年に官営として操業を開始している。また、1877(明治10)年には同じ群馬にくず糸を集めて紡績を行う、新町紡績所が操業を開始した。新町紡績所は日本最初の絹糸紡績所である。1873(明治6)年のウィーン万博で学び、スイスなどの絹糸紡績所を調査、紡績所の建白がのぼってきて、当時内務卿であった大久保利通の上申により1875(明治8)年に建設が決定した。新町紡績所は現在のカネボウに至っている。またこの新町紡績所も石河確太郎が動かした蒸気機関の1つである。

それ以前に、石河は薩摩藩において1867(慶応3)年に日本最初の機械紡績所・鹿児島紡績所を作った。その紡績工場の技師のための館として作られたのが、『明治日本の産業革命遺産』の構成資産リストに載っている旧鹿児島紡績所技師館、通称・異人館である。石河は御雇の技師として富岡製糸場に呼ばれており、月給100円という当時では最高の給与をもらっていたことは群馬史料研究という雑誌によって明らかにされている。この給与はウィリアム・ウィリスに匹敵する。この頃の日本人労働者の平均年収が70円であったことを考えるといかに破格であるかがわかる。「製糸場見聞雑誌」において1875(明治8)年12月に富岡製糸場で勤務していた職員名が記載されており、御雇の筆頭に石河の名が記されている。この記述や給与などから石河が富岡製糸場を動かしていた最高責任者は石河であったと言える。

ここで富岡製糸場が世界遺産であるならば、世界文化遺産認定の功績は石河確太郎にあるのではないだろうか。

明治日本の薩摩革命遺産①

原口泉

県立図書館長・志學館大学人間関係学部教授

専門は日本近世史・近代史であるが、南九州(特に薩摩藩)や沖縄(琉球)の歴史に詳しい。 専任講師時代より各種テレビ番組の時代考証・解説(近年ではNHK大河ドラマ「篤姫」の時代考証)や多数の公職を務める。

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