外国の脅威と薩摩の危機感
日本の南端に位置し、琉球も支配下においていた薩摩藩では、これより早い段階で外国船と接し、近代化の必要性を感じていました。
文政7年(1824)にイギリス船が宝島沖に現れ、数人のイギリス人が小船で上陸し、
食用の牛を求めましたが断られ、逆恨みしたイギリス人は銃を乱射して牛3頭を強奪しました。
その後藩庁から島に来ていた役人らが応戦し、イギリス人の一人を射殺しました。
その現場一帯はイギリス坂と呼ばれ、このことがきっかけで、翌年に「異国船打払令」が出されたといわれています。