幕府に洋式船の必要性を認めさせるため、 まず琉球の進貢船に大砲を載せる建造をすすめた島津斉彬。
その後ペリーの浦賀艦隊の来航もあり 嘉永6(1853)年9月には大船建造が解禁、 瀬戸村(現鹿児島県鹿児島市黒神町)の造船所での建造によって、 安政元年12月には洋式船「昇平丸」が竣工しました。
翌年には幕府に献上されて「昌平丸」と改名されています。