江戸に上洛した久光は武力を背景に幕政改革を要求。 その帰路、薩摩藩の行列に割り込んだイギリス人を藩士が殺傷する事件(生麦事件)がおこり、文久3(1863)年、イギリスの軍艦が7隻、錦江湾に侵入する事態となりました。 薩摩側の砲台は全壊、城下も焼け集成館の工場群も灰燼に帰します。 この後薩摩藩は攘夷の無謀さを悟り、イギリスと急接近、集成館事業を復活させるとともに、方向転換をはかっていくことになります。