指宿の二月田温泉に滞在していた島津斉彬は、この地域が水に乏しく水田が少ないことから、池田湖の水を灌漑用水にあてる掘削工事を命じました。 しかしその翌年の斉彬の死去もあり計画は中断。 明治5年に県令大山綱良による再開、明治9年の完成となりました。 当初池田湖の水神を恐れた奉行を説き伏せた斉彬。 近代化は集成館に代表される工業のみならず農業の面でも取り組まれていたのです。