夜間田ノ浦(現福岡県北九州市門司区)の沖を、兵庫から長崎に向かって航行していた薩摩藩の長崎丸が、長州藩の砲台からの砲撃を受けたのは文久3(1863)年の12月24日のこと。 28人が溺死する惨事となりました。 現場を臨む大藏院(福岡県北九州市門司区田野浦)にはその死を悼み後年招魂碑が建てられています。