抜けば一太刀で相手を倒す薬丸自顕流の使い手であった大山綱良は、 文久2(1862)年に起こった寺田屋事件では、 京都での挙兵を計画する有馬新七ら過激派に対する藩からの鎮撫使として遣わされています。 戊辰戦争でも活躍、明治7(1874)年に鹿児島県令となり、同年私学校ができるとこれと結び、 西南戦争に関しては官金を軍資金に提供するなどして協力しました。 その罪で9月30日長崎で斬首され、墓は西南戦争の薩軍戦没者が眠る南洲墓地にあります。