青少年育成のため、有馬新七が築かせた石坂が今も大切に残されています。 有馬新七は、万延元(1860)年、石谷の領主・町田久成に招かれて石谷の奉行となり、 悪いことをしたものに遠方から石を運ばせるという方法で 坂道の道の悪いところを立派な石畳の道に普請させました。
寺田屋事件の上意打で亡くなった有馬は武闘派のイメージが強いですが、 薩摩藩の藩校造士館の訓導師を務めるなど学問もよく修めた人物でした。