名君島津斉彬の最後の日々の様子の一端を伝えるのがこの石碑です。 安政5(1858)年、斉彬は鹿児島に帰国していましたが、幕府の大老に就任した井伊直弼によって次期将軍が斉彬たちとは反対勢力の徳川慶福に決まったのを受け、次なる手として3千の兵を率い上洛することで幕府に改革を迫る準備をしていたといわれます。 7月8日は炎天下、この天保山の調練場での訓練を見ていました。 しかし7月9日には腹痛で寝込み、同月16日に亡くなってしまうのです。