嘉永6(1853)年、ペリーが浦賀に来航したこの年、江戸から鹿児島入りした島津斉彬は、大隅半島の巡検を行い、藩内情勢を自ら視察しています。 同じ時期、斉彬の養女となった一門家の娘・篤姫は将軍家定の御台所になるため江戸へ出発。外国の脅威から日本を守るために幕政改革が必要と考えていた斉彬は、次期将軍に考え方の近い一橋慶喜を推し、篤姫の大奥工作にも期待が向けられました。 西郷隆盛も斉彬の指示によりこの将軍継嗣問題に奔走、他藩の人物とも交流していました。