決闘の場として認識されるくらいうっそうとしていたといわれる「枦木馬場(はいのっばば)」。 江戸時代、原良や永吉(現鹿児島県鹿児島市原良・永吉)に広がっていた田んぼの甲突川沿いに枦(ハゼ)の木の並木がありました。 蠟の原料である枦は幕末の薩摩藩の財政を支える重要なものでしたが、それだけに役人の厳重な管理下に栽培され、農民たちの重い負担となっていました。 そのため明治時代になると多くは伐採され、枦木馬場にも一本も残っていません。