受難は明治時代に入っても続きました。
明治元(1868年)年、長崎では大掛かりなキリシタン弾圧が行われ、 他藩に預けて改宗させようとしました。 鹿児島へは平穏丸に乗って375人が預けられました。
明治5年に帰国するまで廃寺であった福昌寺に収容され、 その間に病死した58人がここに葬られました。 亡くなった方もいましたが13人の赤ちゃんが生まれ、 330人が鹿児島丸で長崎に帰ることができました。
福昌寺跡の山手にある墓は、その際に客死した方々のものです。