大規模な製陶も幕末の薩摩藩を支えていました。 天明6(1786)年ごろ、平佐領北郷家の家老伊地知団右衛門は、 平佐の地に有田の陶工を呼び登窯を築かせ、陶石は天草から運び、 磁器の生産を開始しました。天保年間には赤絵、 慶応年間にはべっ甲焼の技法が取り入れられ、 慶応3(1867)年にはフランスの貿易商コンド・デ・モンブランが訪れ 欧州向けの製陶を指導しています。 しかしながら明治に入り北郷家の保護がなくなると衰退してしまいました。